西暦1000年前後のフランス・覚書

*上記書籍参照。

9世紀にシャルルマーニュカール大帝)が築いたフランク帝国のうち西部は、西暦1000年が近づく頃には跡形もなく瓦解し、野盗と大差ない地方豪族らが割拠するパッチワークと化していました。また、ローマ教皇、地元司教ら、そしてその対立者たちもお互いに権威と富をめぐって争っていたのです。
このころ、ブルターニュ半島にはケルト人がいまだ威勢を張っていましたし、海峡をはさんでブリテン島に面するノルマンディー地方は、北欧からやってきたヴァイキングの子孫らががっちりと掌握していました。フランドル*1の豪族らはシャルルマーニュの後継者たち(カロリング朝)に口先しか忠誠を誓っていませんでした。アキテーヌ*2プロヴァンスといった南部の人々は、そもそも言葉からしオック語という別の言語をしゃべっており、北部の人々にとってはケルト人や北欧人とかわらぬ異邦人でした。
987年、カロリング朝最後の王ルイ5世が崩御しました。西フランクの王位請求者として北部に現れたのが、パリ伯ユーグ・カペー*3でした。ユーグは、セーヌ川とオワーズ川*4にはさまれたフランキアとイル・ド・フランスと呼ばれるパリ周辺の地域を継承した大貴族でした。彼には強力な味方として、カロリング王家に敵対していたランス*5大司教アダルベロとその被保護者である大学者ジェルベール*6が相談役についていました。カロリング王家につながらないユーグが西フランク王になるためには、神を味方につける必要があったのです。
ランスは、古代よりガリアの交易要衝でした。ここを支配する大司教は、伝統的に西フランク王の戴冠を行ってきたのです。おそらくはジェルベールの発案で、ゲルマン人の間で大昔から行われてきた国王選挙が持ち込まれました。世襲の王をいただくのではなく、貴族の間で王を選出するという制度です。かくして987年、ユーグ・カペーは貴族らの互選にもとづき、ランスで西フランク王に即位しました。
ユーグ王は、ドイツ王オットーやカロリング王家の末裔であるロレーヌのシャルルといった王位請求者らを巧みな外交手腕で切り抜けると、王の威令をゆっくりと周りに広げ始めました。989年1月にランス大司教アダルベロは死去し、後継者としてジェルベールが王の支援を受けて就任しました。
アダルベロが亡くなった同じ年、南部では画期的な運動が始まりました。「神の平和」運動です。
南部では、地方豪族らによる小荘園や教会領への侵犯が横行していました。継承制度の隙をついて、保護と管理を名目に領地を乗っ取る輩が多発したのです。また、力ずくで土地を奪い、持ち主を追い出すことも日常茶飯事でした。こうした状況を憂慮した聖職者たちは、平和を実現する運動を開始したのです。
989年1月、ポワティエ南の修道院に有力な司教らが群衆とともに大規模な集会を開きました。ここで出された宣言は、教会の不可侵を犯したり、教会の財産を奪ったり、非武装の聖職者を襲ったりした者は破門されるというものでした。
「神の平和」運動は急速に南部に広まっていきました。各地の教会は次々と「破門の鋭い剣」を振るうようになりました。貴族たちは従わざるをえませんでした。やがて運動はより広範な意味を持つようになっていきました。すなわち道徳の復活です。個々人は自分の行動を自制することが求められるようになったのです。
「神の平和」は、教会と貴族がよりしっかりした体制を備えていた北部では広がりませんでした。彼らにとってこの運動は、神の定めた秩序を破壊しかねないものに映ったからです。ある司教はこう言いました。「いつまで続くのか? 司教が鋤を引き、騎士が僧侶となり、農夫が王となるまでか?」
996年、ユーグ王が崩御すると、ロベールが即位しました。970年ごろに生まれたロベール敬虔王は、ランスでジェルベールに師事する幸運にめぐまれました。しかしこの友情は、ロベールが従妹のベルタと結婚しようとしたとき、ジェルベールが許しを与えなかったことで壊れました。ロベールの王位はまだ脆弱なものでしたが、彼はそれを父譲りの知性と教育と経験によって保ちました。彼は「神の平和」にしたがうことにしたのです。その目的は道徳よりも政治的なものでした。農民反乱と豪族どうしの私闘を抑えるためだったのです。
アンジューやシャンパーニュといった地域では、王のみを主君とする大所領修道院が、力ではなく法でもって平和を実現しようとしました。1027年以降は、貴族たちによって「神の和約」という「平和」運動に似た主義が取られるようになりました。すなわち、特定の日付や場所、人や道について暴力を禁止するというものです。
以後数百年にわたって、封建制度は秩序を確立していきました。王、伯、豪族、騎士、農民がそれぞれ相互契約が結ばれるに至るのです。かつてローマ法とサリカ法*7の混合であった法体制が全国的なものになっていきます。
1002年、ブルゴーニュ公が死去すると、ロベールがその封土を継承しました。彼は息子らをつくって世襲を確かなものにしました。1031年に崩御したとき、カペー家の領地はフランキアがフランスとなり、パリがヨーロッパ最大の都市になっていく基礎に成長していたのです。

*1:ベルギー西部を中心にフランス北部からオランダ南西部を含む北海に面する地域。

*2:フランス南西部、大西洋に面したアキテーヌ盆地一帯に広がる地方。主要な都市にボルドーがある。

*3:カペーとは、彼が修道院長だったときにまとっていた“ケープ”に由来。

*4:セーヌ川の北の支流。

*5:パリの東130km、シャンパーニュ地方の中心都市。

*6:後の教皇シルヴェステル2世。

*7:フランク族の慣習法