教皇シルヴェステル2世

本名をジェルベールというフランス人最初の教皇シルヴェステル2世は、学問の暗黒時代にあって燦然と輝く大学者でした。940ごろに生まれた彼は、オウリヤックのベネディクト派聖ジュロー修道院で教育を受けた後、イスラム文化と接するカタルーニャ地方で学問を研鑽して、アラビアの科学と数学に精通しました。ローマに招聘されたときには、ドイツ王オットー1世と皇太子(後のオットー2世)に謁見して、両者に感銘を与えました。982〜984年は、皇帝オットー2世に招かれてボビオの修道院長をつとめました。その後、ランスに戻った彼は、大聖堂学校の校長として活動しました。
ランスで名声を博したジェルベールは、中世で学ばれていた七つの学問すべてに精通しました。すなわち、文法、修辞、論理、数学、天文、幾何、音楽です。彼の蔵書はヨーロッパ随一のものでした。彼は精力的に友人らと書簡をかわしました。
圧倒的な知性に加えて、技術者としてもジェルベールは秀でていました。天文学の授業のため、天体の動きを表現する天球儀を作り上げました。数学用には、千個の珠があるアバカス(そろばん)を作成しました。時計技術にも卓越していたといわれています。そしてその腕はすばらしいオルガン製作者として音楽にまでおよんでいました。
彼の生徒の中には、ユーグ・カペーの息子ロベール(後のロベール2世敬虔王)がいました。ジェルベールの師、ランス大司教アダルベロが死ぬと、彼ら二人の尽力によって王位についたユーグ・カペーの助力で、991年にジェルベールはランス大司教に就任しました。
しかしロベールとの友好は、ジェルベールが最大のパトロンであった皇帝オットー3世のもとに走ってラヴェンナ大司教となり、やがて999年に教皇シルヴェステル2世になったことで壊れました。教皇となった彼は、オットー皇帝の抱くキリスト教帝国復活の夢を助ける立場になったからです。しかしシルヴェステル2世には、キリスト教会を帝権の外側に置くという展望も持っていました。
西暦1000年、シルヴェステル2世はポーランドのグニエズノ大司教区を設立し、ハンガリーのイストヴァン王の戴冠を行い、キリスト教布教を助けました。
1003年に亡くなる頃には、彼の名声は民間伝承にまで登場するまで高まっていました。中には黒魔術師だったという噂もありましたし、マーリンや魔術師シモンを語るように語られたりもしたのです。彼はまさに「この世の驚異」にふさわしい傑出した人物でした。